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イライラ戦争

イラン・イラク戦争は、

1980年から1988年まで続いた、中東のイランとイラクの間で起きた大きな戦争です。両国ともたくさんの人が亡くなり、世界中を巻き込んだ悲しい出来事でした。ここでは、なぜ起きたのかを中心に、背景から結果までを詳しく、でも簡単な言葉で説明しますね。難しい言葉が出てきたら、かっこで簡単に補足します。歴史的事実に基づいてお話しします。

ja.wikipedia.org

まず、背景を知ろうこの戦争の舞台は、中東のイランとイラクという隣国です。イランはペルシア人(古代のペルシア帝国の流れをくむ人々)が中心で、イスラム教のシーア派(イスラム教の一派で、特定の指導者を重視するグループ)が多数派。イラクはアラブ人(アラビア半島を中心に住む人々)が中心で、スンナ派(イスラム教の主流派)が多数派です。この宗派の違いや民族の対立が、古くから問題になっていました。大事なポイントは、石油です。両国とも石油がたくさん出る国で、特にシャットゥルアラブ川(ペルシア湾に注ぐ大きな川で、石油を運ぶ船が通る大事な水路)が国境にあり、どちらがこの川を支配するかをめぐって長年ケンカしていました。1975年に一度、合意(アルジェ合意)で解決したはずでしたが、イラクがそれを破棄したんです。1979年にイランで大きな変化が起きました。それが「イスラム革命」です。

 

親アメリカの王様(シャー)が倒され、ルーホッラー・ホメイニーという宗教指導者が新しい政府を作りました。これでイランは「イスラム共和制」(宗教が政治を強くリードする国)になりました。でも、革命の後でイラン国内は混乱し、軍隊の力が弱くなりました。一方、イラクではサッダーム・フセインという独裁者が1979年に大統領になり、石油のお金で軍隊を強くしていました。彼はアラブの誇りを高め、周辺国を支配したいと思っていました。なぜ起きたの?(主な原因)簡単に言うと、イラクがイランの弱点を狙って攻め込んだのがきっかけです。詳しく見ていきましょう。

  1. 領土と資源の争い:シャットゥルアラブ川の支配権が一番の原因。イラクはこの川を独占したくて、イランの石油産地であるフーゼスターン州(イランの南西部で、アラブ人が住む地域)を「アラブの土地だ」と主張。石油をたくさん取って富を増やしたかったんです。

  2. イランの革命の影響:イランの革命で、ホメイニーが「イスラム革命を他の国にも広げよう」と呼びかけたので、イラクや他のアラブ国が怖がりました。特にイラク国内にはシーア派の人々がいて、革命が広がるのをフセインが恐れたんです。イランが弱っている今がチャンス!と思ったイラクが、先制攻撃を決めました。

  3. 宗派と民族の対立:シーア派 vs スンナ派の宗教的な違い、アラブ人 vs ペルシア人の民族的なライバル意識が、火に油を注ぎました。フセインは「アラブの英雄」として戦争を正当化しました。

  4. 外部の影響:欧米やソ連、アラブ諸国がイラクを支援。みんなイランの革命が広がるのを止めたくて、イラクに武器やお金を与えました。例えば、アメリカはイラクを「敵の敵」として見ていたんです。

 

つまり、イラクの野心(領土を取って強くなる)とイランの混乱(革命後の弱さ)がぶつかり、歴史的な対立が爆発したんです。イラクは「短い戦争で勝てる」と思っていましたが、予想外に長引きました。戦争の経過と主要な出来事戦争は1980年9月22日に始まり、8年続きました。最初はイラクが優勢でしたが、イランが巻き返し、最後は膠着(どちらも進まない状態)になりました。主な流れを時系列で。

  • 1980年:イラクの突然の攻撃
    イラク軍がイランの空軍基地を爆撃し、国境を越えて侵攻。南部で都市を占領し、石油地帯を目指しました。イランはびっくりしましたが、国民が団結して抵抗。ホッラムシャハルという街の戦いが激しく、「血の街」と呼ばれました。

  • 1981-1982年:イランの反撃
    イランが義勇兵(ボランティアの兵士)をたくさん集め、ホッラムシャハルを奪い返しました(1982年5月)。イラクはびっくりして休戦を提案しましたが、イランは「フセインを倒すまでやめない」と拒否。イラン軍がイラク領に攻め込みました。

  • 1983-1985年:化学兵器の使用とミサイル戦争
    イラクが毒ガス(化学兵器)を使ってイラン兵を攻撃。これが国際的に非難されました(1983年)。両国がお互いの都市をミサイルで撃ち合い、たくさんの一般人が被害に。イラクはフランスやソ連から武器をもらい、優勢に。

  • 1986-1988年:タンカー戦争とアメリカの介入
    ペルシア湾で石油タンカー(石油を運ぶ船)を攻撃し合う「タンカー戦争」が起きました。アメリカがクウェートの船を守るために介入し、イランと衝突。1988年、アメリカの軍艦がイランの民間飛行機を誤って撃墜(イラン航空655便事件、290人死亡)。これでイランが弱気になり、国連の停戦決議を受け入れました。

主要な出来事として:

  • 1981年:イスラエルがイラクの原子炉を爆撃(イラクの核開発を止めるため)。

  • 1986年:イラン・コントラ事件(アメリカが秘密にイランに武器を売っていたのがバレた)。

  • 1987年:国連安保理598号決議(停戦を求める国際的な呼びかけ)。

  • 1988年8月20日:停戦発効。

 

イランは「人海戦術」(たくさんの兵士を投入する作戦)で戦い、イラクは最新兵器を使いました。両方とも子供兵や強制徴兵があり、悲惨でした。結果はどうなったの?1988年に停戦し、領土は戦前と同じに戻りました。でも、被害は巨大:

  • 人的被害:両国で約50万人が戦死、数百万人が負傷や行方不明。化学兵器の後遺症で今も苦しむ人がいます。

  • 経済的被害:石油施設が壊れ、両国とも巨額の借金。イラクの借金が、後年のクウェート侵攻(湾岸戦争の原因)につながりました。

  • 国際的な影響:中東の不安定さが続き、アラブ諸国が結束(湾岸協力会議の強化)。イランは孤立しましたが、革命体制を維持。アメリカや欧米はイラクを支援したことを後悔する羽目に。

 

この戦争は「20世紀最後の大規模な総力戦」と呼ばれ、教訓として「戦争は誰も得しない」ことを教えてくれます。イランとイラクは1990年に国交を回復しましたが、今も緊張が残っています。

イラン(イスラム)革命は、

1979年に起きたイランでの大きな政治的変化で、王様(シャー)の時代からイスラム教を基にした共和国へ移行した出来事です。正式には「イスラム革命」とも呼ばれ、世界に大きな影響を与えました。ここでは、なぜ起きたのかから、経過、結果までを詳しく、でも簡単な言葉で説明しますね。難しい言葉が出てきたら、かっこで補足します。歴史的事実に基づいてお話しします。

britannica.com +1

まず、背景を知ろうイランは中東の国で、古代からペルシア帝国として栄えていました。20世紀に入り、石油がたくさん出るようになって豊かになりましたが、1979年までの王政時代はモハンマド・レザー・シャー・パーレビ(以下、シャー)が独裁的に統治していました。シャーはアメリカやイギリスと仲が良く、西洋的な近代化(都市化や女性の権利拡大)を進めました。でも、これが伝統的なイスラム教徒の人々を怒らせたんです。

history.com +1

シャーの時代は、秘密警察(サヴァク)が人々を監視し、反対者を逮捕・拷問するなど、自由がありませんでした。一方、石油のお金で一部の人が裕福になる一方、貧富の差が広がり、失業やインフレ(物価の上昇)が問題に。宗教指導者たちは「西洋文化がイランを壊す」と批判していました。特に、ルーホッラー・ホメイニーというシーア派(イスラム教の一派)の指導者が、シャーを強く非難していました。ホメイニーは1960年代にイランから追放され、パリに亡命していましたが、カセットテープで演説を広め、人々を動かしました。

brookings.edu +1

なぜ起きたの?(主な原因)簡単に言うと、人々の不満が爆発し、宗教的なリーダーがそれをまとめたんです。詳しく見てみましょう。

  1. 政治的な抑圧:シャーの独裁で、選挙が不正、言論の自由がなく、反対派が投獄される。みんなが「もう我慢できない!」と思いました。

    fiveable.me

  2. 経済的な不満:石油ブームで都市部は発展しましたが、農村部や貧しい人々は取り残され、失業率が高く、物価が上がって生活が苦しくなりました。貧富の格差が社会の不満を増大させました。

    history.com +1

  3. 文化・宗教的な対立:シャーの西洋化政策(例: 女性のヒジャブ禁止やアルコールの許可)が、伝統的なイスラム教徒を傷つけました。ホメイニーは「イスラム法に基づく国を作ろう」と呼びかけ、宗教指導者、学生、商人、労働者などさまざまな人々が団結しました。

    institute.global +1

  4. 外部の影響:アメリカがシャーを支援していたので、反米感情が高まりました。1970年代の石油危機や国際的な人権批判も、革命を後押ししました。

    history.com

つまり、国内の不満+宗教の力+国際的なプレッシャーが原因で、短い間に大衆の蜂起(大規模な反乱)が起きたんです。

britannica.com

革命の経過(タイムラインで主な出来事)革命は1977年頃から兆しが見え、1978-1979年に本格化しました。最初は平和的なデモでしたが、政府の暴力でエスカレート。時系列で簡単にまとめます。

brookings.edu +1

  • 1977-1978年:不満の蓄積とデモの始まり
    1977年:シャーの息子批判の記事がきっかけで、学生デモが発生。
    1978年1月:コム市で宗教学生のデモが鎮圧され、40日ごとに追悼デモが繰り返され、全国に広がりました。
    9月:ブラック・フライデー事件(テヘランで軍がデモ隊に発砲、数百人死亡)。これで人々が激怒し、ストライキ(仕事拒否)が石油産業などで起き、国が止まりました。

    brookings.edu +1

  • 1978年末:革命の加速
    12月:アーシューラー(シーア派の宗教行事)で数百万人がデモ。ホメイニーが「シャーを倒せ」と指示。軍の一部が反旗を翻し始めました。

    brookings.edu

  • 1979年1-2月:シャーの崩壊
    1月16日:シャーが国外逃亡(エジプトへ)。
    2月1日:ホメイニーがパリから帰国、英雄のように迎えられる。
    2月11日:軍が中立を宣言し、革命派が政府機関を占拠。革命勝利!

    en.wikipedia.org +1

 

この間、非暴力的な抵抗(デモやストライキ)が中心で、ホメイニーのカリスマが人々をまとめました。でも、暴力的な衝突で数千人が亡くなりました。

nonviolent-conflict.org

 

結果はどうなったの?1979年4月、国民投票で99%が賛成し、イランは「イスラム共和国」になりました。新憲法で、ホメイニーが最高指導者(ヴェラーヤテ・ファギーヒ、宗教的・政治的リーダー)になり、イスラム法(シャリーア)が基盤に。女性のヒジャブ着用義務化など、社会が大きく変わりました。

worldatlas.com

 

良い影響:イランの人々が自立し、反帝国主義(外国の干渉反対)の象徴に。女性の教育が進んだ面もあります。悪い影響:革命後、過激派が台頭し、反対派の粛清(処刑)で数千人が犠牲に。アメリカ大使館占拠事件(1979-1981年、52人拘束)で米イラン関係が悪化。経済制裁で苦しみ、イラン・イラク戦争(1980-1988年)の引き金にもなりました。

history.com +1

 

この革命は、中東の政治を変え、イスラム主義の台頭を促しました。今もイランの政治に影響を与えています。

institute.global +1

イラン革命は、人々が団結して変化を起こした感動的な物語だけど、悲しい犠牲も伴いました。

アラブの春というのは、

2010年の終わりから2011年にかけて、中東や北アフリカのいくつかの国で起きた大きなデモや革命の動きのことです。簡単に言うと、人々が長年続いていた独裁的な政府に不満を爆発させて、自由やより良い生活を求めて立ち上がった出来事なんですよ。難しい言葉は避けて、優しくお話ししますね。どうやって始まったの?きっかけは、チュニジアという国で起きました。

 

2010年12月、モハメド・ブアジジという若い果物売りの男性が、警察に不当な扱いを受けて焼身自殺してしまったんです。これが人々の怒りを呼び起こし、チュニジア中で大規模なデモが広がりました。みんなが「もう我慢できない!」と声を上げ、結局、ベン・アリ大統領が辞めざるを得なくなりました。これを「ジャスミン革命」と呼ぶ人もいます。

britannica.com +1

 

このニュースがソーシャルメディア(FacebookやTwitter)で瞬く間に広がって、他の国にも影響を与えました。まるでドミノ倒しのように、次々とデモが起きたんです。主な国で何があったの?

  • エジプト:チュニジアの後、すぐにエジプトで大勢の人々がカイロのタハリール広場に集まりました。ホスニ・ムバラク大統領が30年も権力を握っていたことに不満が爆発。デモが続き、2011年2月にムバラク大統領が辞任しました。でも、後で軍隊が介入して、また状況が変わっちゃいました。

    history.com

  • リビア:ムアンマル・カダフィ大統領に対する反乱が起きて、内戦みたいになりました。国際社会も介入し、結局カダフィ政権が倒れました。でも、その後国が安定しなくて、混乱が続いています。

    history.com

  • シリア:バッシャール・アサド大統領に対するデモが激しくなって、軍隊が抑え込もうとした結果、内戦に発展。たくさんの人が亡くなり、今も問題が続いています。

    nationalgeographic.com

  • 他の国:イエメンではアリ・アブドッラー・サレハ大統領が辞任、バーレーンやヨルダン、モロッコでもデモがありましたが、政権が変わるまでには至らなかったところが多いです。全体で、貧困や失業、腐敗、言論の自由のなさが原因で、人々が「変えたい!」と思ったんです。

    cfr.org +1

 

結果はどうなったの?アラブの春は、一部の国で民主的な選挙が起きたり、変化をもたらしました。例えばチュニジアは比較的うまく民主化が進みました。でも、全体として見て、期待ほど大きな変化はなく、内戦や新しい独裁者が出てきた国もあります。10年経った今でも、その影響で中東の政治が揺れているんです。

cfr.org

 

要するに、アラブの春は人々が勇気を持って立ち上がった感動的な出来事だけど、悲しい結果もたくさんあったんです。もしもっと詳しい国について知りたいなら、教えてくださいね!

シリア内戦は、

2011年から2024年まで続いたシリア国内の大きな紛争です。アラブの春の影響で始まり、結局は国家の崩壊を引き起こし、周りの国々や世界にまで悪い影響が広がった「連鎖」のような出来事になりました。ここでは、なぜ起きたのかから、経過、結果までを詳しく、でも簡単な言葉で説明しますね。難しい言葉が出てきたら、かっこで補足します。歴史的事実に基づいてお話しします。

britannica.com +1

 

まず、背景を知ろうシリアは中東の国で、1971年からアサド家(ハーフィズ・アル=アサドとその息子のバッシャール・アル=アサド)が独裁的に統治していました。バッシャール・アサド大統領は2000年から権力を握り、言論の自由がなく、失業率が高く、腐敗(汚職)がひどい状況でした。人々は不満をため込んでいました。

cfr.org +1

 

2011年、アラブの春(中東の民主化デモの波)がチュニジアやエジプトからシリアに飛び火しました。シリアの人々も「自由を!」「アサドを辞めさせろ!」とデモを始めました。でも、政府はこれを力ずくで抑え込もうとしたんです。これが、内戦のきっかけになりました。

britannica.com +1

 

なぜ起きたの?(主な原因)簡単に言うと、人々の不満が爆発し、政府の暴力的な対応が火に油を注いだんです。詳しく見てみましょう。

  1. アラブの春の影響:他の国で成功したデモを見て、シリアの人々も勇気を出しました。特に、2011年3月、南部のダルアーで子供たちが壁に反政府の落書きをしたのをきっかけに、抗議が広がりました。

    britannica.com +1

  2. 政府の抑圧:アサド政権はデモ隊に軍隊を送り、射撃や逮捕を繰り返しました。これで数百人が亡くなり、人々が怒って武器を取るようになりました。最初は平和的な抗議だったのに、内戦(国内戦争)に変わっちゃったんです。

    britannica.com +1

  3. 宗派や民族の対立:シリアはスンナ派(イスラム教の主流派)が多数ですが、アサド家はアラウィー派(シーア派の一種)で、少数派が権力を握っていました。これが不満を増大させました。また、クルド人などの少数民族も独立を求めました。

    clingendael.org

  4. 外部の関与:イランとロシアがアサドを支援(武器や軍隊を提供)。一方、米国、トルコ、サウジアラビアは反政府勢力を支援。これで戦争が長引きました。

    cfr.org +1

 

つまり、国内の不満+政府の暴力+国際的な干渉が原因で、短いデモが14年もの内戦になったんです。

en.wikipedia.org

内戦の経過(タイムラインで主な出来事)内戦はどんどん複雑になり、たくさんのグループが戦いました。反政府勢力(自由シリア軍など)、過激派(ISILやアルカイダ系)、クルド人勢力、政府軍。時系列で簡単にまとめます。

britannica.com +1

  • 2011-2012年:抗議から内戦へ
    3月:ダルアーでデモ開始。政府が鎮圧し、死者が出る。
    7月:軍の脱走兵が自由シリア軍を結成。
    2012年:アレッポやホムスで激戦。国連が停戦を試みるが失敗。化学兵器の使用疑惑も出てきました。

    britannica.com +1

  • 2013-2014年:過激派の台頭
    ISIL(イスラム国)が登場し、シリア北部を占領。残虐な行為で世界を震撼させました。
    2013年8月:ダマスカス近郊で化学兵器攻撃(数百人死亡)。米国が介入を検討しましたが、回避。
    2014年:米国主導の連合軍がISILを空爆開始。クルド人がコバニでISILと戦う。

    clingendael.org +1

  • 2015-2016年:ロシアの介入
    ロシアがアサドを助けるために空爆開始。これで政府軍が優勢に。
    2016年:アレッポが政府軍に奪還(大規模な破壊と死者)。人道的危機が深刻化。

    clingendael.org +1

  • 2017-2019年:ISILの敗北と膠着
    2017年:ISILの首都ラッカがクルド人勢力に奪還。
    2018年:イドリブで反政府勢力(HTSなど)が残る。トルコが北部を支配。
    2019年:ISILが領土を失うが、テロは続く。

    clingendael.org +1

  • 2020-2023年:低強度紛争
    戦闘は減ったけど、経済制裁や貧困で苦しむ。イドリブで散発的な戦い。COVID-19や2023年の地震で被害拡大。

    clingendael.org +1

  • 2024年:突然の終わり
    11月27日:反政府勢力(主にHTS、イスラム過激派)がアレッポを急襲。
    11月30日:アレッポ市を制圧。
    12月5日:ハマを制圧。
    12月7日:ホムスを制圧。
    12月8日:ダマスカスを占領。アサド大統領がロシアに逃亡。政権崩壊で内戦終了と見なされます。

    cfr.org +3

国家崩壊の連鎖とは?シリア内戦は、ただの国内紛争じゃなく、国家の崩壊(政府の機能が止まること)を引き起こし、それが連鎖のように広がりました。

cfr.org +1

  • シリア国内の崩壊:政府がコントロールを失い、都市が廃墟に。経済が破綻し、食料や医療が不足。ISILのような過激派が空いた隙を狙って台頭しました。

  • 周辺国への連鎖:ISILがイラクに広がり、2014年にモスルを占領。イラクも内戦状態に。トルコやレバノンに難民が流入し、経済負担が増大。

  • 世界的な影響:1400万人以上の難民・国内避難民が発生。ヨーロッパに難民危機を引き起こし、テロ事件(パリ同時多発テロなど)が連鎖。国際関係も悪化(米ロ対立)。

 

この連鎖で、中東全体が不安定になり、今も復興が難しいんです。

cfr.org +1

結果はどうなったの?2024年12月の政権崩壊で内戦は終わりましたが、シリアはまだ混乱中。HTSが暫定政府を宣言し、復興を試みています。でも、宗派対立や外部干渉が残るかも。2025年現在、国際社会が支援を議論しています。

commonslibrary.parliament.uk +1

 

被害の規模:

  • 人的被害:50万人以上が死亡、数百万人が負傷。化学兵器や爆撃で一般人もたくさん犠牲に。

  • 経済・社会:インフラ(道路や病院)が壊れ、GDP(国の経済力)が激減。子供たちの教育が止まり、貧困が広がりました。

  • 国際的:人道的危機で、国連が何度も介入。でも、停戦が長続きしませんでした。

    cfr.org +1

シリア内戦は、勇気ある人々の闘いが悲しい結果を生んだ例です。でも、希望として、政権が変わった今、平和への道が開けるかも。

スエズ運河の開通は、

1869年11月17日にエジプトで起きた歴史的な出来事で、地中海と紅海を人工の水路でつなげた世界初の大規模な運河が正式に使われ始めたことです。これにより、船の航路がぐっと短くなり、世界の貿易が大きく変わりました。ここでは、なぜ作られたのかから、建設の話、開通の様子、結果までを詳しく、でも簡単な言葉で説明しますね。難しい言葉が出てきたら、かっこで補足します。歴史的事実に基づいてお話しします。

history.com +1

まず、背景を知ろうスエズ運河は、エジプトのスエズ地峡(細長い土地の部分)を横断する人工の川みたいなもので、全長約193キロメートルです。昔から、人々はアジア(インドや中国)とヨーロッパの間の貿易で、アフリカ大陸をぐるっと回る長い航路を使っていました。これが大変で、時間とお金がかかるので、「もっと短い道を作れないか?」と考えたんです。アイデア自体は古く、古代エジプトのファラオ(王様)時代からありましたが、本格的に計画されたのは19世紀。

 

ナポレオン・ボナパルトがエジプトを征服した頃(1798年頃)に調査されましたが、失敗。1850年代になると、フランスの外交官でエンジニアのフェルディナン・ド・レセップスが主導して、エジプトの統治者サイード・パシャから許可を得ました。エジプトは当時、オスマン帝国(トルコ中心の帝国)の支配下でしたが、フランスとイギリスの影響が強かったです。

smithsonianmag.com +1

なぜ起きたの?(主な理由)簡単に言うと、貿易を楽にして富を増やしたかったんです。詳しく見てみましょう。

  1. 貿易の効率化:船がアフリカを回らずに済むので、ヨーロッパからインドへの航海が約半分(1万キロメートル短く)に。時間とお金が節約でき、商品(綿花、茶、香辛料など)が早く届くようになりました。

    britannica.com

  2. 帝国主義の影響:19世紀はヨーロッパ諸国が植民地を広げていた時代。イギリスはインドを支配していて、フランスは中東に興味があり、運河で利益を得たかったんです。エジプトも運河の通行料で儲けられると思いました。

    ebsco.com

  3. 技術の進歩:蒸気船や機械が発達したので、大規模な掘削(土を掘る作業)が可能に。レセップスは国際的な会社(スエズ運河会社)を設立し、資金を集めました。でも、建設中はエジプトの労働者(強制労働も含む)が苦しみ、疫病で多くの人が亡くなりました。

    suezcanal.gov.eg +1

つまり、経済的なメリットと大国たちの野心が原因で、運河建設が進められたんです。

intlreg.org

 

建設と開通の経過(タイムラインで主な出来事)建設は1859年から始まり、10年かかりました。主な流れを時系列で。

  • 1854-1858年:計画段階
    レセップスがエジプトのサイード・パシャと契約。運河の設計を決め、資金調達(フランスとエジプトが主に出資)。

    suezcanal.gov.eg

  • 1859-1866年:掘削工事
    ポルト・サイード(地中海側)とスエズ(紅海側)を結ぶルートを掘り始めました。最初は手作業でしたが、後で蒸気掘削機を使い、湖(ビター湖など)を利用。労働者はエジプト人を中心に25万人以上で、コレラなどの病気で2万人以上が亡くなったと言われています。

    nlb.gov.sg +1

  • 1867-1869年:完成へ
    イスマーイール・パシャ(サイードの後継者)が支援を強化。1869年8月18日、地中海と紅海の水がつながりました! 開通前の準備で、港や灯台を整備。

    suezcanal.gov.eg

  • 1869年11月17日:開通式
    盛大な式典がポルト・サイードで開催。招待客6000人以上で、フランスの皇妃ユジェニー(ナポレオン3世の妻)が乗った豪華なヨット「レグル」が先頭を切って運河を通りました。他のヨーロッパの王族や外交官も参加。花火や宴会が続き、2日間にわたるお祝いでした。運河の最初の寸法は、深さ8メートル、底幅22メートルで、大きな船も通れました。

    smithsonianmag.com +2

 

建設費用は当初の2倍以上かかりましたが、完成したんです。

britannica.com

結果はどうなったの?開通後、スエズ運河はすぐに人気になり、1870年には500隻以上の船が通りました。世界貿易が活発化し、イギリスが特に恩恵を受け、1875年には運河会社の株式を買って支配権を握りました。これがエジプトの植民地化につながり、1882年にイギリスがエジプトを占領。

smithsonianmag.com +1

 

良い影響:航海時間が短くなり、商品の価格が下がり、経済が成長。イタリアのトリエステ港のように、運河近くの都市が発展しました。

generali.com

 

悪い影響:エジプトの借金が増え、外国の干渉が強まりました。後年、スエズ危機(1956年)のように戦争の原因にも。現代では、2021年のエバーギブン座礁事件でわかるように、世界経済に欠かせない存在です。

smithsonianmag.com

 

スエズ運河の開通は、人間の工夫で世界を変えた素晴らしい例だけど、植民地主義の影もあったんです。

中東戦争は、

主にイスラエルとアラブ諸国(エジプト、ヨルダン、シリアなど)の間で起きた一連の紛争のことを指します。第1次から第4次までがあり、それぞれが中東の政治地図を変えました。最後に、現在のガザ戦争(2023年10月から続くイスラエルとハマスなどのパレスチナ武装勢力の紛争)についても説明します。ここでは、背景、原因、経過、結果を詳しく、でも簡単な言葉でお話ししますね。難しい言葉が出てきたら、かっこで補足します。歴史的事実に基づいてお話しします。

aljazeera.com +1

 

第1次中東戦争(1948-1949年:イスラエル独立戦争)

背景と原因

1947年、国連がパレスチナをユダヤ人国家(イスラエル)とアラブ人国家に分ける計画を決めました。でも、アラブ側が反対。1948年5月14日、イスラエルが独立を宣言すると、エジプト、ヨルダン、シリア、イラク、レバノンがすぐに攻撃を始めました。原因は、土地の分け方への不満と、ユダヤ人の移民増加でアラブ人が追い出されたと感じたこと。ホロコースト(ナチスによるユダヤ人大虐殺)後のユダヤ人移住が背景にありました。経過戦争は1948年5月から1949年7月まで。イスラエル軍が意外に強く、侵攻してきたアラブ軍を撃退。国連の停戦交渉で、1949年に休戦協定が結ばれました。でも、完全な平和ではなく、境界線が決まっただけ。結果イスラエルが領土を広げましたが、パレスチナ人は「ナクバ(大惨事)」と呼び、70万人が難民に。ヨルダンが西岸と東エルサレム、エジプトがガザを支配。アラブ側の敗北で、イスラエルへの敵意が高まりました。死者はイスラエル側約6,000人、アラブ側約15,000人。

第2次中東戦争(1956年:スエズ危機)

背景と原因

エジプトのナセル大統領が1956年7月、スエズ運河を国有化(国が所有する)しました。これはフランスとイギリスが支配していた運河をエジプトに戻す動き。でも、欧米が怒り、イスラエルもエジプトの脅威を感じていました。原因は、ナセルのアラブ統一主義と、イスラエルへの武器禁輸への反発。秘密裏にイスラエル、フランス、イギリスが同盟を組みました。

unrwa.org

経過1956年10月29日、イスラエルがシナイ半島を攻撃。続いて英仏が空爆と上陸。エジプト軍は負けましたが、国連と米ソが介入し、11月に停戦。英仏軍は撤退を強いられました。結果イスラエルは一時シナイを占領しましたが、1957年に撤退。ナセルは英雄になり、アラブ世界の反イスラエル感情が高まりました。英仏の影響力が弱まり、米ソの冷戦が中東に広がりました。死者はイスラエル側約200人、エジプト側約3,000人。

 

第3次中東戦争(1967年:六日戦争)

背景と原因

1960年代、エジプト、シリア、ヨルダンがイスラエル包囲を強め、ナセルがイスラエル船の通行を禁じました。原因は、水資源争いや国境での小競り合い。イスラエルは先制攻撃を決めました。経過1967年6月5日から10日までのわずか6日間。イスラエル空軍がエジプト空軍を壊滅させ、シナイ半島、西岸、ゴラン高原を占領。ヨルダン軍も敗北。結果イスラエルが領土を3倍に拡大(シナイ、西岸、東エルサレム、ゴラン)。アラブ側は大敗北で「ナクサ(挫折)」と呼び、ナセルらの威信が失墜。国連決議242号で「土地と平和の交換」が提案されましたが、実現せず。死者はイスラエル側約800人、アラブ側約20,000人。

 

第4次中東戦争(1973年:ヨム・キプール戦争)

背景と原因

アラブ側が1967年の失地回復を狙い、エジプトのサダト大統領とシリアのアサド大統領が連携。原因は、イスラエルの占領継続と、アラブの石油力を使った報復。ヨム・キプール(ユダヤの贖罪日)に奇襲攻撃を計画。経過1973年10月6日、エジプトがスエズ運河を渡り、シリアがゴランを攻撃。最初アラブ側が優勢でしたが、イスラエルが反撃。米ソが介入し、10月25日に停戦。結果イスラエルが勝利しましたが、損害が大きく自信喪失。アラブ側は誇りを取り戻し、石油禁輸で世界経済を揺るがせました。1979年のエジプト・イスラエル平和条約につながり、シナイ返還。死者はイスラエル側約2,700人、アラブ側約15,000人。これらの戦争は、イスラエル建国後のアラブ・イスラエル対立の象徴で、パレスチナ問題を複雑にしました。ガザ戦争(2023年〜現在:イスラエル・ハマス戦争)背景と原因ガザはパレスチナの小さな地域で、2007年からハマス(イスラム抵抗運動)が実効支配。イスラエルはガザを封鎖し、緊張が続いていました。原因は、イスラエルによる占領政策、パレスチナ人の不満、ハマスのロケット攻撃。2023年10月7日、ハマスがイスラエル南部を大規模攻撃(死者約1,200人、拉致約250人)し、戦争が始まりました。これは「アルアクサの洪水作戦」と呼ばれ、ハマスの報復でした。

bbc.com +1

 

経過イスラエルが即座に反撃し、ガザに空爆と地上侵攻。ハマスはトンネル戦で抵抗。2023年11月に一時停戦(ホステージ交換)がありましたが、崩壊。2024年を通じて激戦続きで、ガザ北部が壊滅。2025年1月に第2停戦が成立しましたが、3月にイスラエル攻撃で崩壊。10月にトランプ政権の「20ポイント和平計画」で新たな停戦合意(ホステージ返還、囚人交換)。ハマスが遺体を返還するなど進展しましたが、イスラエルが援助要請を拒否(100件以上)し、散発的な攻撃が続く不安定な状況です。

news.un.org +5

 

主な出来事:

  • 2023年10月:ハマス攻撃、イスラエル宣言「戦争状態」。

  • 2024年:ラファ侵攻、国際非難。化学兵器疑惑も。

  • 2025年:停戦合意後、援助停滞と違反(イスラエル空爆、農地破壊)。11月現在、冬の厳しさで人道危機深刻。ハマスがホステージ遺体を返還中ですが、イスラエル側が一部拒否。

    aljazeera.com +4

 

国際的に、米国がイスラエル支援、イランがハマス支援。レバノンのヒズボラやイエメンのフーシ派も巻き込み、地域戦争の恐れ。結果(現在まで)死者はパレスチナ側約68,000人(多くが民間人)、イスラエル側約1,100人。ガザの都市が廃墟、260万人が飢餓・病気の危機。停戦は「本物ではない」との声があり、再開の可能性。和平計画でハマスの武装解除や国際監視が議論中ですが、信頼が薄く、援助が止まり冬の被害拡大。2025年11月現在、緊張が続き、完全解決は遠いです。

aljazeera.com +4

 

中東戦争は、土地、宗教、資源の争いが根底にあり、平和が難しいんです。ガザは今も苦しんでいます。

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