訪問者の方から間違い指摘ありがとうございます。
- cqquuny
- 7月21日
- 読了時間: 5分
更新日:7月21日
📢【訂正のお知らせ】
先日、当サイトの「地元島原半島物語」内にある「口之津港の歴史資源」の記述に関し、学識をお持ちの方から貴重なご指摘をいただきました。
🔍 該当箇所:「3. 炭鉱産業の衰退」
以前の記述では「三池炭鉱の衰退とともに口之津港の重要性が低下した」としていましたが、
実際には、明治42年の三池港(大牟田港)の開港によって、積み替えの役割が不要になったことが衰退の直接的な要因とのことです。
📚 ご指摘引用:
三池炭鉱は、当初は遠浅であったために大型の船が入ることができず、口之津港まで一旦運び、積み替えていました。明治42年に三池港が完成すると、口之津港での積み替えがなくなり、一気に衰退していきます。
(参考文献:隈部守「石炭産業発展期における口之津港の盛衰」人文地理 24-5, 1972)
✏️ 【訂正済みの内容はこちら】
三池炭鉱は、当初は遠浅で大型船が入港できなかったため、石炭を一旦口之津港まで運んで積み替える方式がとられていました。しかし明治42年(1909年)に三池港が完成すると、炭鉱から直接大型船への積出しが可能となり、口之津での積み替えは不要に。それが港の急速な衰退の転機となりました。

<補足>
✅ 三池炭鉱の閉山時期 🗓️
三池炭鉱は1997年3月30日に閉山しましたフクリパ+10ウィキペディア+10全日本自治団体労働組合+10。江戸時代の採炭始まりから数えると約528年、三井経営に入ってから108年、官営創業から124年にわたる歴史の終焉でしたmiike-coalmines.jp+3全日本自治団体労働組合+3荒尾市公式サイト+3。
⚓ 三池港の完成時期と費用対効果
完成時期は1908年(明治41年)で、実質稼働は1909年ごろから東京都建設局+9フクリパ+9k-keikaku.or.jp+9。
建設費は当時で約376万円(現価で約410億円)、延べ262万人が施工に関わった大規模プロジェクトk-keikaku.or.jp。
最新の整備では、費用便益比(B/C)は約2.3、NPVは72億円、内部収益率(EIRR)は約30%と高い投資効率が検証されています国土交通省クイックサービスレポート+3国土交通省クイックサービスレポート+3東京都建設局+3。
つまり、現代的にも十分なコストパフォーマンスがあり、費用対効果は高いと評価されています。
🤔 口之津で積み替え継続は合理的だったか?
ポイント整理:
観点 | 三池港建設 | 口之津積替継続 |
序盤コスト | 巨大な初期投資(376万円・人員多数) | 既存港の利用で初期低コスト |
輸送効率 | 10,000t級船接岸可能 → コスト削減、大量輸送可内閣官房+5国土交通省クイックサービスレポート+5東京都建設局+5 | 小型船+陸送 → 手間・時間・費用が増 |
長期収益 | 現代算出で高い事業便益 | 情報なしだが、効率面で見劣り |
地域的メリット | 大牟田一帯の経済発展に寄与 | 多次元的裾野効果は限定的 |
→ 長期視点では、三池港建設の方が付加価値も多く、合理的だったという集計のようです。
🧭 総まとめ
閉山は1997年3月30日で、地域に大きな影響を与えました。
三池港建設は1908年完成で、現代でも高評価の費用対効果が出ています。
口之津積み替え継続は短期コストでは有利だったかもですが、大規模化・効率化・経済波及効果という点では見劣りし、長期的には三池港の選択が合理的だった可能性が高い。
💬 考察の余地
当時の地元はどう判断していたか?財政負担は?
石炭価格の変動・国内外炭との競合はどう影響?
人員再配置や地域経済のシフトは進んだか?
こうした視点を地元史料や官報・地域紙で追えば、さらにリアルな背景が見えてくるかもしれません。
Quunyの思い
🌍 明治時代、日本は石炭を輸出して外貨を稼いでいた
明治政府は「富国強兵・殖産興業」を掲げ、外貨を得るために石炭輸出に力を入れました。当時の日本にとって、石炭は最も有力な“売れる資源”であり、海外(中国・朝鮮・東南アジアなど)への輸出によって、多くの外貨を獲得していました。
🔹 1895年には約100万トンを輸出、輸出額は1,200万円(当時)
🔹 1905年には約250万トン、輸出額3,000万円以上
🔹 輸出全体の25%以上を石炭が占めた年もありました
この時代、三池炭鉱で産出された石炭は、門司港や口之津港などを経由して海を渡り、日本の産業近代化を下支えする重要な貿易品だったのです。
🚢 口之津港も、外貨戦略の一翼を担っていた
当時、三池炭鉱は遠浅で大型船が入れず、口之津港まで石炭を運び、積み替えて海外へ輸出していました。つまり、口之津は「外貨獲得のための中継港」として重要な役割を担っていたのです。
この歴史を知ることで、かつての口之津の活気や、町に暮らす人々の誇りが、よりリアルに見えてきます。
💬 この事実に触れるたび、口之津町実家に住むQuunyは思うのです――
「口之津は、世界とつながっていた港町だった」
しかし同時に・・・
口之津港と女衒の関連:
口之津港が三池炭鉱の積出港として栄える一方で、その繁栄には女衒(人身売買業者)が関与していたといった歴史もあります。石炭産業の発展とともに、労働者や女性たちが集まり、人身売買が横行した時期がありました。
🌊 「口之津港と女衒」それ自体が、社会への問い
「繁栄とは何か?」「誰がその代償を払ったのか?」「いま、その構造は本当に変わったのか?」
📌 最後に一言:
“町を愛する”というのは、「良いところだけを見せること」じゃない。ありのままを、未来に渡すこと。
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